モディ・ケア ― BOP 5億人のための医療保険制度改革 ―

9月下旬、Ayushman Bharat(*1)と呼ばれる国家健康保護ミッション(The Pradhan Mantri Jan Arogya Yojana (PM-JAY) )が開始された。モディ首相が「Game Changer」と呼ぶ重要施策であり、インド国内では賛否両論あるものの、大きな話題を呼んだ。本稿では、モディケアと称される国家健康保護ミッションについて触れてみたい。

余談であるが、インドの医療・健康を語る上で、「AYUSH」という言葉は覚えておきたい。AYUSHとは伝統医療であるAyurveda(アーユルヴェーダ), Yoga & Naturopathy(ヨガ&自然療法), Unani(ユナニ医学), Siddha(シッダ医学) and Homoeopathy(ホメオパシー) の略称であり、Ministry of AYUSHという省庁があるほど一般的となっている造語である。

 

<目次>

  • 医療事情
  • 公的医療の現実
  • 現行の医療保険制度
  • モディケアの内容
  • モディケアへの批判と期待

 

医療事情

インドの医療事情について、医療サービス提供者側と患者側に分けて俯瞰してみよう。まず、医療サービス提供者側であるが、Indian Brand Equity Foundation のレポートによると、2016年時点でインドには約200,000の病院と157,000のサブセンター・健康センター、それらに加えAYUSH療法を提供する3,600の病院があるようだ。民間セクターは病院数ベースで全体の2~3割程度、病床数ベースで4割を占めているとのこと。

医師数は主に病院を中心として約1百万人存在していると言われている。The Medical Council of Indiaによれば、医師1人に対する患者数が1,674人とWHO目安の1,000人を大きく上回っており、医師の労働負担が重くなっている。

他方、患者側に目を向けると、経産省レポート(*2)によれば、国連ミレニアム開発目標の指標である乳幼児死亡率は3.6%、妊産婦死亡率は0.14%と、日本の0.3%、0.005%と比較すると非常に高い(ただし、経年では大きく改善しており、また新興国の中では低めである模様)。また、ニッセイのレポート(*3)では、公衆衛生や生活環境の改善により伝染病による死亡の割合が大きく低下してきており、一方で非伝染病(外傷や器官系の疾患)による死亡の割合が増加していることが指摘されている。そのため今後インドにおいても先進国同様の病院インフラが求められるものと考えられる。

World Bankによれば、2014年のインドにおける一人当たり医療支出(公的負担・個人負担合計)は$270であり、米国$9,400、英国$3,400、中国$730と比較すると低いと言える。病院の医療単価が低いこともあるが、公的医療も十分に行き届いてはおらず、満足のいく医療が受けられない国民も多くいるものと考えられる。

 

公的医療の現実

インドの公的医療システムは英国同様、3段階の医療区分を有している。つまり、患者はまず各地域の第一次医療機関(主に農村部に存在する健康センター等)に相談し、その後紹介制により第二次医療機関(病院)・第三次医療機関(高度専門病院)を受診できるようになる。しかしながら、州政府が管轄する第一次・第二次医療機関を中心にキャパ不足の問題が横たわっている。この問題は深刻である。後述するように、インドには5億人を超える貧困層がおり、こうした国民は民間医療を受けることができないため、公的医療に頼らざるを得ない。ここでは、公的医療を利用する患者が直面する困難を記事を引用する形で紹介したい。

 

ワシントン・ポスト(2018年9月23日)(*4)  ―

On a recent afternoon last month at Safdarjung Hospital, a government facility in New Delhi, dozens of people were camped outside, bedding down on mattresses and plastic sheets for days while they or family members were treated inside.

At Safdarjung, beds are in short supply, doctors work long shifts and patients cry as surgery dates are delayed.

“We have been sleeping here for the past eight days,” said Mamata Devi, a young mother who had traveled more than 24 hours by train to get to the hospital after her 6-year-old daughter accidentally drank cleaning liquid. The child had been treated but needed follow-up care.

“When it rains, we sleep there,” Devi said, pointing to a small roof at a side entrance to the hospital.

Devi spent about $60 on travel from her village. Food costs her an additional $3 a day. Her husband makes about $4 a day selling utensils.

“We will spend the next year or two paying back the loan,” she said.

 

先月のある日の午後、ニューデリーの政府系医療機関サフダジュン病院(2,900病床を持つインド最大規模の政府系医療機関)の外で、数十人の人々が数日に渡ってマットやビニールシートの上に横たわって野営をしていた。自分自身や家族が医療処置を受けるために。

サフダジュン病院ではベッドが不足しており、医師は長時間労働を強いられ、患者は手術日を延期され泣いている。

“私達は8日間ここで寝ています”とママタ・デヴィは言った。彼女は洗浄液を誤って飲んでしまった6歳の娘を連れて、電車で24時間以上をかけて来院した若い母である。娘は既に医療処置を受けたが、継続的なケアが必要な状態であった。

“雨天の日はそこで寝ています”とデヴィは病院の入り口横の小さな屋根を指差して言った。デヴィは彼女の住む村から$60をかけて来院した。ここでの食事には1日$3かかる。彼女の夫の稼ぎは日用品販売で1日$4である。

“私達は今回の医療ローンを返済するために来年もしくは再来年まで費やすだろう”

 

上記の事例ほどではないにせよ、遠方からの来院、数日ないしは丸一日かけての医療処置、圧し掛かるローン支払い、等は公的医療を受ける患者にとってはよくある現実となっている。こうした貧困層が直面する医療課題を緩和・解決すべく、モディケアの挑戦が始まるのである。

 

現行の医療保険制度

モディケアの内容に入る前に現行の公的医療保険制度を紹介したい。詳しい内容はニッセイのレポートを参照いただきたい(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=58202&pno=1?site=nli)。

インドには3種類の公的医療保険制度がある。

  • 公務員を対象とする中央政府医療制度(CGHS)
  • 一部民間企業の従業員を対象とする従業員州保険制度(ESIS)
  • 政府支援により貧困層が民間保険に加入できる国家健康保険制度(RSBY)

端的に言うと、これらは一部の特権層(公務員等)および貧困層を対象としている。富裕層・上位中間層は民間の医療保険に加入していることが多い。公的医療保険の費用はGDP比1%台と世界平均6%に比べ大きく劣っており、医療費の自己負担も60%を超えるなど(世界平均は20%)、公的医療保険が満足のいく水準であるとは言い難い。また、統計・計画実施省全国標本調査局によると、地方の86%・都市部の82%の家庭が医療・健康保険に加入していないとのことだ。

 

モディケアの内容

こうした現状下、2018年2月1日に公表された年度予算において、Ayushman Bharat programmeの一環として、健康・医療に関する2つの取り組みが発表された。

 

(1)120億ルビー(約190億)の予算を割り当て、15万箇所のHealth and Wellness Centre(健康促進センター)を全国各地に設置し、包括的な健康・医療ケアサービス(病気・妊娠・小児病のケアや無料の診療サービス・医薬品提供)を提供する

(2)貧困・弱者家庭1億世帯(約5億人)を対象に、年間50万ルピー(約80万円)を上限として第二次医療機関(病院)・第三次医療機関(専門病院)の医療費を公的負担とする

 

その後、9月23日に正式に国家健康保護ミッションが開始された(政府・病院それぞれにおけるオペレーション上の課題は多々あるため、実際の導入・浸透にはまだ時間がかかるのだが)。下記にいくつかのポイントを列挙していく。

  • RSBYを対象者・給付金額の面で拡張したスキームであり、対象者として1億世帯・総勢5億人( 国民の40%)をカバー(RSBYは3,700万世帯)
  • 1家庭分の保険料支払は年間1,110ルピーであり、年間の公費負担額は1,200億ルピー(約1,900億円)に上る(有識者による事前のシミュレーションより遥かに少ない金額とのこと)(受益者による負担は原則ゼロ)
  • 公費負担額の内、原則60%は中央政府負担、残りの40%は州政府の負担となる。
  • 中央政府負担は720億ルピーであり、2018年度(下期のみ)は400億ルピー(約640億円)を負担
  • 州政府は信託モデル(中央・州政府がそれぞれ信託に資金拠出し、病院の請求に基づき支払。支払超過分は両政府で折半)と保険モデル(保険会社への委託)を選択できるが、3分の2の州は信託モデルを選択。(ハイブリッドモデルもあり)
  • 実際の補償支払額が膨らむと、将来、政府の保険料負担も増加する可能性がある
  • いくつかの州(とりわけモディ首相率いるインド人民党BJPの政敵・国民会議派が実験を握る州)は導入に否定的である

 

以降に述べる様々な批判はあるものの、モディケアは貧困層の医療サービス享受と家計負担軽減に向けた大きなチャレンジとして、その導入が期待される。

 

モディケアへの批判と期待

インドのメディアではモディケアに対する否定的な見解も多く交わされている。主な批判を取り上げてみよう。

  • 2019年5月の選挙票田獲得に向けた(実行を伴わない)ただの宣伝(モディ首相率いるインド人民党BJPは地方・農村・低所得者層の票田が弱い)
  • 最大の懸念は財源をどこから捻出するのか問題(中央政府・州政府ともに)(中央政府プライマリーバランスは恒常的に赤字である)
  • 貧困層を優先するため中間層が病院から締め出される可能性。また、下位中間層の自己負担割合が相対的に大きくなる逆転現象が生じる。
  • 現場目線での課題が山積(例えば、持ち出し発生懸念から私立病院・郊外/地方の小規模病院が不参画、医師・医療従事者の負担が増す一方効率化に向けたインフラ整備に遅れ)
  • 新たな不正・賄賂等の温床になる可能性

 

とりわけ、選挙対策と財源不足に関する批判の声が大きい。一方、「今まで光が当たらなかった暗部に焦点を当て改革の旗を立てた」とリーダーシップを賞賛する声も多い。最初から100%完璧な成果を期待することは無理であるが、産官学から多数の支援者を獲得し、理想の姿へ向けて前進することができるという期待である。

 

以上のように前途多難なモディケアであるが、今後の改革の行方を見守って生きたいと思う。

 

本稿の最後に余談であるが、13億人の国民・36の州・連邦直轄地・7超の宗教・22の公用語・1600超のローカル言語が存在し、ヴァルナ(4つの階級)・ジャーティ(3000以上の職業)の名残(所謂カースト)が残る、世界一多様な超大国を率いるモディ首相の強力なリーダーシップは本当に畏れ入る。国全体に明日は今日よりも良くなるという自信・信頼が満ちているからこそ、新しい道に進むことができるのであるが、その「道を示す(旗を立てる)」という難題に挑む覚悟は筆者の想像の域を超えている。

 

参考:

(*1) Ayushman Bharat HP:https://www.india.gov.in/spotlight/ayushman-bharat-national-health-protection-mission

(*2) 経産省レポート:http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/28fy_detailreport_India.pdf

(*3) ニッセイレポート:https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=58202&pno=1?site=nli

(*4) ワシントン・ポスト記事:https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/india-launches-modicare-the-worlds-biggest-government-health-program/2018/09/21/46c275d6-bb6e-11e8-adb8-01125416c102_story.html?noredirect=on&utm_term=.36669a025550